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最高裁判所第一小法廷 昭和42年(行ツ)98号 判決 1974年5月30日

上告人

社会保険審査会

右代表者

川嶋三郎

右指定代理人

貞家克己

外四名

被上告人

加藤悦夫

右訴訟代理人弁護士

渡辺良夫

四位直毅

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告指定代理人青木義人、同藤堂裕、同宮嶋剛の上告理由第一点について。

論旨は、要するに、健康保険制度は、いわゆる公的扶助とは異なり、保険方式を採用した社会保障制度であるから、一般の被保険者及び事業者の負担において被保険者資格を喪失した者に対し従来の保険給付を継続するいわゆる継続給付の制度は、例外的、附加的性格を有するものであつて、その給付を施すべき場合は限定的に解釈すべきものであるとし、健康保険法五五条(昭和三二年法律第四二号による改正前のもの。以下同じ。)にいう「被保険者ノ資格ヲ喪失シタル際……保険給付ヲ受クル者」とは、資格喪失当時現実に保険給付を受けている者をいい、右にいう現実に保険給付を受けているとは、療養の給付についていえば、具体的な現実の療養の給付を受けていることをいうもの、少なくとも、全体として医師の支配下にあるものでなければならないものと解すべく、また、同条による保険給付を受けるためには、資格喪失後も上記の受給が継続していることを要するものと解すべきであるとし、そうである以上、原判決認定の事実関係からすれば、被上告人は、被保険者資格喪失当時及びその後継続して療養の給付を受けていた者とはいいえないにもかかわらず、原判決が、これと異なる見地に立つて、現実に療養の給付を受けている者と認めるべき場合を広く解し、被上告人に対し療養の継続的給付を受ける資格を認めたのは、右法条の解釈適用を誤つたものである、というのである。

案ずるに、健康保険事業における費用の主たる財源は保険料収入に求められているものではあるが、右保険料の負担は、保険事故の危険度に応じて定められているものではなく、各被保険者の標準報酬月額に比例して機械的に定められ(健康保険法七一条)、かつ、保険の利益を享受しない事業主もまた右保険料の二分の一を負担する(同法七二条)こととなつており、また、保険給付の内容も、必ずしも保険料の負担と比例するものではない(同法第四章)のであつて、ここに、社会保険としての健康保険の特殊な相互扶助的性格をうかがうことができるものというべきである。また、同法七〇条は、健康保険事業の事務の執行に要する費用は国庫がこれを負担すべき旨を規定し、更に、昭和三二年法律第四二号による改正で追加された同法七〇条ノ三は、政府の管掌する健康保険につき、その事業の執行に要する費用の一部を国庫が補助すべき旨を規定しているのであるが、これらの規定は、健康保険制度がわが国の社会保障制度において果たす役割にかんがみ、いわゆる保険方式を建前とするものではあるが、同制度の充実発展を、国家財政を通して図ることを国の責務とする法の態度を示すものといわなければならない。

ところで、同法五五条の定める継続的保険給付の制度は、現に被保険者資格を有しない者に対して保険給付を継続するものである点において、所論のとおり、保険制度としては例外的・附加的なものであるから、これを一般の被保険者に対する保険給付の場合と同断に論ずることのできない面があることは否定しえないところであろう。しかしながら、同制度は、過去において一定期間、被保険者として保険料を負担した事実のあることを契機として、当該被保険者に対し、その資格喪失後も、保険給付による救済を与えようとするものであり、上記のような健康保険の特殊な相互扶助的性格とその充実発展を国の責務とする法の態度とをあわせ考えるときは、所論のように、現時点においてその保険給付に対応する保険料の醵出をしていないとか、保険給付が一般の被保険者や事業主の負担においてされるものであるとかいうことを理由として、その適用範囲を限定的にのみ解すべきものではないといわなければならない。しかして、健康保険法が療養の継続的給付を認めた理由は、一般に疾病等の治療については相当長期間の療養を要する場合が少なくなく、このような疾病等について被保険者資格の喪失と同時に療養の給付が打ち切られるときは、実質上、当該資格喪失者において以後の療養を継続することが著しく困難となり、かくては経済的能力に乏しい労働者に安心して疾病等に関する治療を受けさせようとする同法の目的にも反する結果となるので、その弊を救済しようとするところにあるものと解されるのである。このような見地からすれば、たとえ被保険者資格喪失当時たまたま一時的に具体的な医療行為を現実に受けていなかつたとしても、このことを理由に直ちに当然に同法五五条一項にいう療養の「給付ヲ受クル者」に該当しないものと解すべきではなく、同条の適用にあたつては、当該疾病等の性質、その治癒に必要な療養の性質及び内容、具体的な医療行為を受けていない理由等に照らし、依然として療養を継続する意思と必要性を有し、全体としてみれば、療養の状態が継続していると認められるかぎりは、なお現実に療養の給付を受けているものと認めるのが相当であるとした原判決(その引用する第一審判決を含む。以下同じ。)の判断は、相当であるといわなければならない。そして、原判決は、右のような見解のもとに、被上告人の本件疾病である肺結核症に関していえば、その性質上、間けつ的に医師の診察、指導を受けながら、過激な労働を避け、適当な安静をとり、努めて栄養のある食物を摂取する等の方法によつて療養を行ない、その傍ら軽微な勤労に服するというような状態もまた療養の一種であり、その間にされる医師の診察や指導も療養の給付たることを失わないものとする一方、被上告人の本件疾病に関する療養の経過に関する認定事実の要旨として所論が引用する諸事実のほか、被上告人を診断した崎田医師が当分は適当な安静、食餌療法によつて病状の推移をみるという方針をとつていたこと、被上告人自身としても、医師の指導のもとに療養に専念したい意向をもつていたものの、経済的な事情により、比較的軽微な労働に服さざるをえなかつたこと、そして、自覚症状に変化があれば直ちに医師の診療を受ける態勢と心構えをもつていたこと、被上告人が数か月間医師の診療を受けなかつたのは、さしあたり格別の病状の変化を自覚しなかつたことと健康保険証を取り上げられたので保険医の診療を受けることができないのではないかと思つていたことによるものであること、及び当時被上告人はなお療養を必要とする症状にあつたこと、等の事実を適法に確定したうえ、これらの事実関係からすれば、被上告人は、全体として見れば、なお療養を放棄又は断念したものではなく、その被保険者資格喪失当時(及びその後一一月松谷病院に入院するまでの間引き続き)、療養の状態はなお継続していたものと認めるべく、したがつて、現に療養の給付を受けていたものと認めるのが相当である、としているのであつて、その判断もまた正当として首肯しうるところである。

以上の次第で、所論その余の主張について判断を加えるまでもなく、論旨は採用することができない。

同第二点について。

論旨は、要するに、現行法上の傷病手当金支給の制度は、被保険者が現に通常の生活費に相当する収入(一般的に標準報酬日額の六割相当額)を得るための労務に服していないことを受給要件とするものであり、したがつて、被保険者が勤務先の変更を余儀なくされ、転職先での労働が軽微でその報酬額が減少することとなつたような場合であつても、なお同法四五条にいう「療養ノ為労務ニ服スルコト能ハザルトキ」に当たらないと解すべきものであるから、原判決認定の事実関係からすれば、被上告人は被保険者資格喪失当時すでに転職、就労していたものとして傷病手当金の受給権は否定されるべきであるのに、原判決が、これと異なる見地に立つて、同条所定の就労不能に当たる場合を広く解し、被上告人が訴外吉田隆蔵方において就労していた事実があるにもかかわらず、なお右にいう就労不能に当たるものと認めたのは、同条の解釈適用を誤り、また、同法五五条の適用を誤つた違法がある、というのである。

案ずるに、健康保険法四五条は「被保険者ガ療養ノ為労務ニ服スルコト能ハザル」ことを要件として傷病手当金を支給することとしているのであるが、それは、療養のための就労不能により報酬を受けることができない被保険者に、一定の限度でその生活を保障して療養に専念しうる状態を与えようとするものにほかならない。したがつて、被保険者がたとえその本来の職場における労務に就くことが不可能な場合であつても、現に職場転換その他の措置により就労可能な程度の他の比較的軽微な労務に服し、これによつて相当額の報酬を得ているような場合は、同条所定の受給要件には該当しないものというべきである。しかしながら、他方、傷病手当金の支給をえられないために、療養中の被保険者が可能な限度をこえて労務に服することを余儀なくされるような結果を来たすことは、前記傷病手当金の制度の目的に反することであり、このような点を考えれば、その受給要件をあまり厳格に解することもまた相当でないものといわなければならない。このような見地からすれば、上記のような労務に服することができない以上、たとえ幾分でも生計の補いとするために副業ないし内職のごとき本来の職場における労務に対する代替的性格をもたない労務に従事したり、あるいは、なんらかの事情により当然受けうるはずの傷病手当金を受けることができなかつたため、やむを得ず右手当金の支給があるまでの間の一時的なつなぎとして軽微な他の労務に服したりして、賃金を得るような事実があつたとしても、これによつて傷病手当金の受給権を喪失することはないと解すべきものとした原判決の判断は、相当であるといわなければならない。そして、原判決は、被上告人が肺結核の療養のためその本来の労務である訴外合資会社八幡製作所における旋盤工としての労務に服することができない状態にあつたこと、同人が所論吉田方で就労するようになつたのは、傷病手当金が降りないので生活費に窮した結果、右手当金が降りるまで一時自己の仕事の手伝いをしてはどうかという右吉田の申出に従つたものであること、その他右吉田方における被上告人の仕事の内容とこれに対する賃金支払等に関する詳細な事実関係を適法に確定した上、その仕事の実質は個人的な仕事についての間けつ的な手伝いというべきものであるとし、また、その賃金には両者の特別な関係に基づく生計扶助的意味をもつた恩恵的給付たる部分もかなり混入していると認められること等から考えて、所論吉田方における被上告人の就労は、副業に準ずる程度のものと認むべきであるとし、しかも、右就労は傷病手当金が降りるまでの一時的なつなぎとしてのものであるから、上記の見解からすれば、これによつて被上告人が傷病手当金の受給資格を喪失するような就労と認めることは妥当ではないとしているのであつて、その判断もまた正当として首肯しうるところである。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

(下田武三 大隅健一郎 藤林益三 岸盛一 岸上康夫)

上告人指定代理人青木義人、同藤堂裕、同宮嶋剛の上告理由

第一点 原判決は、健康保険法第五五条所定の「保険給付ヲ受クル者」の解釈および適用を誤つたものであつて、原判決には判決に影響を及ぼすこと明らかな法令の違背がある。

一、原判決(その引用する第一審判決を含む。以下同じ。)は、健康保険法第五五条所定の「保険給付」の一種である療養の給付を受くるものであるかどうかについて、「被保険者がその資格を喪失した当時なんらかの理由によりたまたま一時的に、診察、治療、療養指導等の具体的な医療行為を現実に受けていなかつたとしても、(中略)当該疾病等の性質、その治癒に必要な療養の内容および性質、具体的な医療行為を受けていない理由等に照らし、当該被保険者が疾病等の療養を放棄、断念または廃止したわけではなく、依然として療養を継続する意思と必要性を有し、全体としてみれば、なお療養の状態が継続しているものと認められる限りは、なお現実に療養の給付を受けているものと認めるのが相当である。」とされ、肺結核症については、「その性質上、初期においては自覚症状も少なく、投薬注射等の具体的治療を継続して行なうことは必ずしも必要でなく、間を置いて医師の診察、指導を受けながら、過激な労働を趣け、適当な安静をとり、努めて栄養のある食物を摂取する等の方法によつて療養を行ない、その傍ら軽微な勤労に服することも不可能ではなく、かかる状態もまた療養の一種であり、その間になされる医師の診察や指導も療養の給付たることを失わない」とされている。

そして、原判決は、さらに補足して、同条にいう療養の給付を受くる者を「被保険者資格喪失当時現実に療養の給付を受けている者のみに限定すること自体も必ずしも正当な解釈ということはできない」、「被保険者がその資格保有中罹病して療養の給付を受けていた場合には、被保険者資格喪失当時たまたまなんらかの理由により療養が一時中断されていたとしても、当該疾病等が治癒したわけではなく、同一疾病につき、なお引き続き従前どおり療養を必要とする状態にある限りは、継続して療養の給付を受ける資格があると解するのが妥当」である、とされている。

原判決が、健康保険の継続給付を受けるための要件である資格喪失の際において存すべき現実の保険給付の内容を右のとおり極めて広義に解され、のみならず現実の保険給付の存在すら要件と解すべきでないとされる理由は、「健康保険法において療養の継続的給付を認めた理由が、一般に疾病等の治療については相当の長期間の療養を要する場合が少なくなく、かような疾病等について被保険者資格の喪失と同時に療養の給付を打ち切り、爾後はその者の負担において療養を継続せしめることとするときは、実際上療養を継続すること自体が著しく困難となり、経済的能力に乏しい勤労者に対して安心して疾病等に関する治療を受けさせようとするにある」との制度についての理解にあることは判文上明らかである。

しかし、次に述べるとおり、原判決の継続給付制度に対する理解は、同制度が現行の健康保険制度のうちにある特則的制度であることを看過した一面的な見解であり、さらにこれを前提とした原判決の健康保険法第五五条の解釈には明白な誤りがある。

二、原判決は、健康保険制度の性格および継続給付の制度の趣旨および限界を十分に把握していない結果、健康保険法第五五条の解釈を誤つたものである。

(一) 健康保険制度は、社会保障制度の中にあつて、その形態は、いわゆる保険方式を採用し、健康保険法所定の要件に該当する労働者を強制的に被保険者とし、これらの勤労者と事業主が義務として拠出する保険料を財源として、その保険団体の中で事故の発生があつた者に保険給付を行なうことを建前とするものである。すなわち、健康保険制度は、受給者の義務履行を問題としない生活保護等のいわゆる公的扶助とは異り、相互扶助の共済の理念に基づく社会保障制度なのである。したがつて、保険理論からすれば、保険給付を受ける者は、その財源たる保険料を負担している者、すなわち被保険者であるべきこととなる。しかし、現に保険給付を受けている被保険者がその被保険者たる要件を欠くに至つたために従前から受けてきた給付を打ち切られるということは、疾病等の治療が概ね継続的になされるものである点からして不合理であることは否めない。とりわけ、健康保険法においては、被保険者の資格要件として現に労働者として使用されていることを要するとされているため、被保険者資格を有する間に発生した疾病等のためこれを機会に職を離れることを余儀なくされる場合も少くない。これらの事案において、その者が被保険者資格を喪失すると同時に、従来からの保険給付をそのことの故に直ちに打ち切ることは、その者を貧困に陥しいれ、社会復帰を遅らせ、あるいは不能ならしめるおそれなしとしないのである。そのため、これらの者には例外的に保険料を納めることなしに一般の被保険者および事業主の負担において、従来の保険給付を継続することにより、速かに労働社会へ復帰させようとするのが継続給付の制度なのである。したがつて、継続給付の制度は、無制限に給付を継続するものでないことはもとより、被保険者資格を有する間に発生した事故であれば、資格喪失後も保険給付を行なうことを建前とするものではなく、ただ資格喪失前に受けてきた保険給付を引き続きこれを継続して給付しようとするもので、保険制度としては例外的、附加的性格を有するものである。これは、本来的に受給資格を有する他の一般被保険者の余分の負担を最少限にとどめ、一般の被保険者に常に十全な保険を果しうるようにするため、当然、右の例外的給付を施す場合を限定する制度的必要性が生ずる結果なのである。そうだとすれば、健康保険法第五五条の解釈にあたつても、この制度的趣旨および限界を逸脱することはできないのである。

(二) 健康保険法第五五条に「資格ヲ喪失シタル際……保険給付ヲ受クル者」とは、現実に保険給付を受けている者および法律上受給権は生じているが、法律の規定により支給が停止されていて現にこれを受けられない状態にあるものをいうのである。ここで、現実に保険給付を受けているものとは、例えば、療養の給付についていえば、現実に診察、投薬を受け、または医師の療養指導など具体的な診療行為のもとにある者をいうのである。また、現にこれを受けられない状態にあるものとは、例えば、傷病手当金について、賃金の支給がある場合(法第五八条)のように、基本的な受給資格を有しながらも傷病手当金が支給されていない場合をいうのである(昭和二七年六月一二日保文第三三六七号、参照)。

次に、同条にいう「継続シテ……給付ヲ受クルコトヲ得」とは、資格喪失時に受けていた保険給付(給付の対象となつていた疾病等およびこれによつて発した疾病に対する保険給付)をその後も継続して受けられることを示すとともに、当該疾病等に対する療養の給付が継続される限りにおいて、被保険者として保険給付を受けうる所定期間、引き続きその保険給付を受けられることを規定するものである。けだし、資格喪失時に保険給付を受けていない場合には、喪失後に保険給付を受けられないことは文理上明白であるのみならず、資格喪失後においても、その給付が依然継続されていることが必要であつて、いかなる理由によるとを問わず、給付の継続がない状態が生じた場合には、以後同条所定の継続給付を受けることはできないことも、これまた文理上明らかだからである。これを療養の給付についていえば、その給付があるとは診察、投薬等が継続し、または医師から定期的もしくはその指示に基づく期間ごとに療養指導を継続して受けている状態をいうのであり、これに中断が生じたときは、継続はしていないものとして、中断後の給付は行なわないことになるのである。しかして、その中断の時点は、資格喪失後の療養中であると資格喪失と同時であるとを問わない道理である。

(三) そして右にいう療養の給付とは、具体的な医療行為を現実に受けていることが必要なことは先に見てきたところから当然であつて、ただ単に療養の意志があり、かつ療養を必要とする状態にあることだけでは、これをもつて療養の給付を受けているものと認めうるものではない。これは継続給付の制度がかような具体的な現実の療養の給付を継続しようとするものに外ならないことからも明らかなことである。したがつて、健康保険法第五五条にいう「保険給付」としての療養の給付とは、具体的な現実の療養の給付でなければならず、かりに当該疾病等の性質などによつてその療養の給付内容に個別性があるとしても、全体として医師の支配下にあるものでなければならないのである。

(四) ところで、被上告人の本件疾病に関する療養の経過について、原判決が認定した事実の要旨は、次のとおりである。

(イ) 被上人は、昭和二八年二月一日頃から体が疲れやすく、不眠衰弱感があり、元気がない等の身体の異常を感じたので、勤務先である合資会社八幡製作所を休んで休養していたが、同月一一日、保険医崎田平二の診察を求め、レントゲン検査の結果、右肺尖部に結核性肺浸潤があると診断された。もつとも、右病状は、特に不良というわけでもなく、また熱もないので、同医師は即刻特別の治療を要するほどの病状でないと考え一一日と一三日の二回に精神安定剤を主体とする薬剤を二日分ずつ交付したほか、体温表を与えて毎日体温をはかつて記入することを命じ、かつ、当分安静にするようにとの指示を与え、被上告人の請求により昭和二八年二月一日から同年四月末日まで三カ月間の要静養の診断書を交付するにとどまつた。なお、その際、崎田医師は、被上告人の喀痰を採取し、その検査を東洋微生物研究所に依頼し、検査結果は同研究所から崎田医師に同年四月二二日までにすべて回答されたが、右検査結果については、被上告人から崎田医師に対する問い合わせがなく、同医師からも被上告人に通知していないし、カルテにも記載されていない。

その後、被上告人は、崎田医師の指示に従い、自宅において静養していたが、前記のほかに崎田医師から薬を貰うこともなく、また格別診察を受けるということもなかつた。

(ロ) 被上告人は、生活費に困窮し、かたがた静養の結果気分も多少よくなつたので、同年三月六日頃、崎田医師に相談し、同医師から軽い労働ぐらいはしてもよいだろうと言われて、その頃から会社を欠勤したまま知人である吉田隆蔵の仕事の手伝いをするようになつた。

(ハ) ところが、被上告人が会社を欠勤したまま他所で働いていることが会社に知れ、会社の職員が同年三月二〇日過頃崎田医師のところに預けてあつた被上告人の健康保険の被保険者証を取り上げてしまつたので、被上告人はこれを知つてその頃同医師を訪れ、右事実を確認したが、その際同医師に対して今後の療養に関する相談をし、同医師から生活保護法による給付を求めたらどうか等の忠告を受けたほか、療養に関する一般的注意をも受けた。

(ニ) その後、被上告人は崎田医師の診療を受けたことがなく、同年三月二五日会社を退職し、引き続いて吉田の仕事の手伝いをしていたが病状は思わしくなく、同年七月頃、京橋社会保険出張所で保険診療を受けられるかどうか問合わせたところ、同出張所係官において被保険者資格期間を誤断し、継続給付が不可能であると回答したので被上告人はやむをえず保険診療を受けることを断念し、同年八月頃郷里である栃木県真岡市に帰り、同年九月頃自費で真岡保健所の診療を受け、同年一一月松谷医院に入院し、療養生活に入つた。しかし、同年三月二〇日過頃から同年八月までの間、医師の診察、治療、療養の指導等を受けたことはなかつた。

(五) 原判決の右の認定事実によつて明らかなとおり、被上告人が崎田医師を訪れた最後の日は、昭和二八年三月二〇日過頃であつて、その用件は健康保険の被保険者証の存否の確認であり、その際同医師から受けた助言は、原判決が認定しているとおり、健康保険法にいう療養の給付と断ずることのできない程度のものである。したがつて、同医師から最後に療養の給付にあたる療養指導を受けたのは、同月六日、軽労働の許可を受けた際であり、以後は医師の支配を離れたものといわざるをえない。かりに同月二〇日頃療養指導をうけたとしても、それ以後同年八月までの六カ月間医師の診察、治療はもちろん療養指導を全く受けていないことは原判決の認定しているところである。このような状態のもとで、被上告人は、同年三月二五日、被保険者資格を喪失したのであつて、その資格喪失当時は医師の支配下になく、したがつて現実の療養の給付を受けていたものということはできないのである。

またかりに、右資格喪失当時、いまだ現実の療養の給付を受けている状態であることを失わないとしても、資格喪失時から同年八月までの六カ月間は、全く医師の診察、治療、療養指導を受けていないことは右に述べたとおりである。すなわち、前記(二)で述べた理由によつて継続給付の要件と解すべき資格喪失後の療養の給付の継続は全く欠けているのである。

これについて原判決は、この間も療養の状態が継続していたから、なお現に療養の給付を受けていたものと認むべきであるとされているが、医師の指導支配を離れた後も療養の給付を受けていると解するのは「療養の給付」の概念を不当に拡張するものというほかはない。それは単に療養を要する状態にあつたことを意味するにとどまるか、あるいはせいぜい本人かぎりで療養していたというにすぎないはずである。このように何ら医師の関与がない単なる療養の状態をもつて健康保険法にいう「療養の給付」と解するとすれば、それはもはや一般に承認されている法の解釈の範囲を逸脱しているものといわざるをえないのである。

(六) なお、原判決の前記補足説明は全くの立法論であつて、現行の健康保険法の解釈としては許容されないものと考える。

第二点 原判決は、健康保険法第四五条所定の「被保険者ガ療養ノ為労務ニ服スルコト能ハザルトキ」の解釈および適用ならびに同法第五五条の適用を誤つたものであつて、原判決には判決に影響を及ぼすこと明らかな法令の違背がある。

一、原判決は、被保険者が自己の就労先である事業所等において職場転換等の措置により軽労務に服し、相当額の賃銀を得ていたのでない限り、「副業ないし内職のごとき本来の労務に対する代替的性格をもたない労務に従事したり、あるいは(中略)一時的なつなぎとして軽微な他の労務に服し、賃銀を得るような事実があつたとしても」、なお健康保険法第四五条所定の就労不能にあたる、とされている。

しかし、傷病手当金は、療養中の通常の生活費を一定限度で補填しようとするものであつて、その目的が、被保険者に一応生活費の獲得にわずらわされずに療養に専念しうる状態を与えようとする政策的意図があるとはいえ、現行法上の傷病手当金支給の制度は、被保険者が現に通常の生活費に相当する収入(一般的に標準報酬日額の六割相当額とみるのが健康保険法の建前である。)を得るための労務に服していないことを受給要件としているのである。このことは、健康保険法の規定上から明らかなところである。すなわち、同法第五八条によれば、傷病手当金の受給資格を有する者であつても、報酬の全部または一部を得ているものについては、それが傷病手当金の限度額に満たない場合だけ、その不足差額を支給するものとしている。このことは現行法における傷病手当金支給の制度の趣旨を如実に示すものであつて、将に一定限度の収入の有無を同手当金支給の要件としているのである。同法第四五条が右の趣旨を就労不能という角度から表現しているのは、一般の経験則を前提とし規定したまでのことであつて、就労せずに、例えば病気休職期間中の一定報酬を得ている場合と、病いをおして就労している場合とを区別する趣旨ではないのである。したがつて、傷病手当金の支給を受けようとする被保険者が右の意味での相当額の収入を得ている場合には、その収入が原判決のように単に従来の職場における配置転換等によつて、軽労働に服して得たものである場合ばかりでなく、勤務先が変更しても、またその転職先の労働が軽度でしかもたとえその報酬額が減少することとなつた場合でも、なお同法にいう療養のため労務に就くことができないときに当らないと解すべきである。この点に関する原判決は、健康保険法第四五条の解釈を誤つたものというのほかない。

二、被上告人の就労関係について、原判決が認定した事実の要旨は、次のとおりである。

(イ) 被上告人は、昭和二八年二月一日から勤務先である八幡製作所を休んで家で静養していたが、傷病手当金がおりる気配がなく、自覚症状も多少良くなつたので、同年三月六日頃、崎田医師の指示をえて、軽労働に服するため縁故のある吉田隆蔵方において、同人の仕事の手伝いをはじめた。同人は、当時発明を依頼されていた機械の約束の完成期限をひかえて助手を必要としていたため、その仕事の助手として被上告人を使用した。被上告人は、勤務先である前記製作所へは無断で同年七月末まで右吉田方において稼働した。

(ロ) 右吉田方における労働条件は、次のとおりである。

就労状態は一カ月のうち半分または二〇日ぐらいで、そのうちまとまつた作業は機械旋盤作業であるが、これを行なう日でも一日平均三、四時間を越えず、月一〇回程度で、それ以外は雑用が主な仕事であつて、勤務時間には制約はなかつた。

右吉田方における労働で得た収入は、月平均八、〇〇〇円から九、〇〇〇円で、これは前記製作所における収入月額の平均六割五分弱に相当するが、日給額としては右製作所におけるとほぼ同額である。

三、原判決が認定した右事実は、その就労面についていえば、被上告人が従来の勤務先である前記製作所において本来の労務に服しえないために可能な軽労働部門に配置転換された場合と実質的に異るところがない。ただ、就職先が異るというだけであり、もはや副業ないし内職といえる性格のものでなく、転職に相当するものである。したがつて、原判決が、被上告人の右吉田方における就労をもつて、なお健康保険法第四五条所定の就労不能と認めたことは、併せて同条の適用を誤つたものといわざるをえない。

右のとおり、被上告人は、被保険者資格喪失当時、すでに転職によつて就労していたもので、健康保険法第四五条による傷病手当金の受給資格をもたなかつたものであるから、右資格喪失時以後も同法第五五条による同手当金の継続給付を受ける権利を有しないことは明らかである。しかるに、原判決がこの点を無視して被上告人の傷病手当金の受給権を認めていることは、原判決に、同法第五五条の適用の誤りがあること明らかである。

以上のとおりであるから、上告人が被上告人に対してなした本件各処分は、いずれも適法なものであつて、これを違法と認定した原判決には、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令の違背があるものといわなければならず、原判決は破棄を免れないものである。

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